雁と投石

      2017/03/26

雁と投石

雁の季節である。雁に石を投げるといえば、鷗外『雁』を連想する。以下、ルビは、()に入れて示している。




「こんな所に立って何を見ていたのだ」と、僕が問うた。
 石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁った夕(ゆうべ)の空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通ずる小溝(こみぞ)から、今三人の立っている汀(みぎわ)まで、一面に葦(あし)が茂っていた。その葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎(まばら)になって、只枯蓮(かれはす)の襤褸(ぼろ)のような葉、海綿のような房(ぼう)が碁布(きふ)せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳(そび)えて、景物に荒涼な趣を添えている。この bitume(ビチュウム) 色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面(おもて)を、十羽ばかりの雁(がん)が緩やかに往来している。中には停止して動かぬのもある。
「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云った。
「届くことは届くが、中(あた)るか中らぬかが疑問だ」と、岡田は答えた。
「遣って見給え」
 岡田は躊躇(ちゅうちょ)した。「あれはもう寐(ね)るのだろう。石を投げ附けるのは可哀そうだ」
 石原は笑った。「そう物の哀(あわれ)を知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云うなら、僕が投げる」
 岡田は不精らしく石を拾った。「そんなら僕が逃がして遣る」つぶてはひゅうと云う微(かす)かな響をさせて飛んだ。僕がその行方をじっと見ていると、一羽の雁が擡(もた)げていた頸(くび)をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。しかし飛び起ちはしなかった。頸を垂れた雁は動かずに故(もと)の所にいる。
「中った」と、石原が云った。そして暫(しばら)く池の面(おもて)を見ていて、詞を継いだ。「あの雁は僕が取って来るから、その時は君達も少し手伝ってくれ給え」 

森鷗外『雁』

石原は、不忍池にはいって獲物を捕りに行くことになる。今の時代では、考えられないことであろう。今の不忍池には、カミツキガメとワニガメがいる。石をあてるつもりがないのに、かえって当たってしまうという枠組みでは、志賀直哉『城の崎にて』を連想する方もおられるだろう。イモリに石を投げたのは「自分はいもりを驚かして水へ入れようと思った」からであった。
田中貢太郎『雁』にも投石によって雁をとる様子が描かれる。

四日市に住んでいる漁師の一人は、伊勢の海へ漁に往くつもりで平生(いつも)のように釣道具を持って家を出たが、海岸へ出ようとする路傍の沮洳地(そじょち)には、平生(いつも)雁や鴨がいるので石を投げて当ると時たま其の肉に有りつくことができた。漁師は其の朝も三つ四つ石を拾って往って、土手の下の沮洳地を見ると、枯蘆の中に雁の群が餌をあさっていた。漁師はそれを見ると釣道具を置いて石を投げた。不意の襲撃に驚いて雁の群はどうと云う羽音を立てながら、明け放れたばかりの微靄のある空へ飛んだが、一羽の雁は石に傷ついたのか沮洳地の上を放れなかった。漁師は喜んでまた残りの石を投げた。石は反れて其の横の方に落ちた。それでも鳥は飛ばなかった。

田中貢太郎『雁』

再度、鷗外『雁』から引用しておく。

福地の邸(やしき)の板塀のはずれから、北へ二三軒目の小家(こいえ)に、ついこの頃「川魚」と云う看板を掛けたのがある。僕はそれを見て云った。「この看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食わせそうに見えるなあ」
「僕もそう思った。しかしまさか梁山泊の豪傑が店を出したと云うわけでもあるまい」

森鷗外『雁』

先の引用部の少し前の部分である。梁山泊と出たので、水滸伝に少し触れて、このコラムを終えようと思う。
水滸伝で雁が出てくる場面といえば、まず、小李広花栄が梁山泊の一員になる際、晁蓋の前で、雁を射た場面、次いで、方臘征伐を終え、凱旋中、雁を射た燕青に宋江が小言をいう場面を思い出す。燕青が雁を射て、宋江に小言を言われたのは、宋江が、義を重んじる自分たちを、義を重んじる雁に重ね合わせたからであった。その雁を殺すとは何事ぞ、というわけである。花栄が晁蓋の前で、弓をとって、見事雁を射たときのことを、きいたとき宋江は、どう思ったのだろうか。
石を投げる、という点では、没羽箭張清とその妻、瓊矢鏃瓊英のことを連想する方も多いだろう。張清は、梁山泊の一員になる前、東昌府兵馬都監であった。官軍の一員として、梁山泊軍と刃を交えたとき、豪傑達を石礫(いしつぶて)で次々に撃退した。宋江は、その姿を見て、例の如く敵将張清にほれ込む。張清の妻瓊英は、実際に張清と会う前から、未来の夫張清と夢で出会っていた。会って何をしていたか。人に石を投げつける方法なんぞを教わっていたのである。(「夢で出会っていた。」でやめておけば、閑人(筆者)ももう少し、人から好かれるのだろうけど。)彼女もまた、石礫を投げる名人であった。ちなみに、張清も、実際に瓊英と会う前から、未来の妻と夢で出会っていた。
張清は、梁山泊にはいるまえ、花和尚魯智深にも礫を投げ頭に怪我をさせる。花和尚をはじめ、張清の石礫に傷つけられた豪傑達は、張清が捕らえられたと聞くと、目に物見せんと、やってくる。宋江が、およしよといったから、張清は助かった。張清、さぞかし、ホッとしたろう。閑人は、清原和博選手の頭にボールをぶつけてしまったあるピッチャーの顔をふと思った。
最後に、野村胡堂『胡堂百話』中の「「銭形平次」誕生(二)」から引用しておく。銭形平次の着想は張清から得られたものらしい。銭形平次という男の特技はなんとしようと、胡堂先生が考えている時期のことである。

 鉄の錫杖(しゃくじょう)をふりまわす花和尚(かおしょう)魯智深(ろちしん)、馬上に長刀を操(あやつ)る九紋竜史進。二丁の斧(おの)をかるがると揮(ふる)う黒旋風(こくせんぷう)李逵(りき)。いろいろの風貌が浮かんでは消えたが、さて、鉄棒やマサカリは、捕物帳の道具にならない。棒の達人、豹子頭(ひょうしとう)林沖(りんちゅう)は勇ましいが、江戸の町では、しょっちゅう、六尺捧をかかえて歩かせるわけにはゆかない。
 そのとき、没羽箭(ぼつうせん)張清(ちょうせい)が頭にうかんだ。百八人のそのうちでも、小石を投げる名人で、常に錦の袋に入れて腰にさげ、エイッと投げれば百発百中。三万余騎の大軍をひきいた敵の大将、阿里奇さえ、小石一つで落馬させてしまう。これだ、これだ!

野村胡堂『胡堂百話』

「三万余騎の大軍をひきいた敵の大将、阿里奇さえ、小石一つで落馬させてしまう。」については、『水滸伝』第八十三回をご参照ください。

江戸川乱歩と野村胡堂の対話が文字に起こされて残っている。ついでに引用しておく。

 江戸川 一番古い捕物帖の作者というとやっぱり岡本綺堂かな?
 野村 まァそうだね。それから佐々木味津三、林不忘……みんな亡くなってしまった。
 江戸川 あの銭形平次の投げ銭……あんなことがむかしあったのかな?
 野村 いや、それをラジオの「朝の訪問」のアナウンサー君にきかれて弱った。あんなのは実際にはなかったろうな。わたしのは「水滸伝」に出てくる没羽箭(ぼつうせん)張清という豪傑、腰に錦の袋を持っていて、その中から石ころをとって投げる。これにはさしもの黒旋風も悩まされるんだが、それにヒントを得たといえばいえるし……。

『探偵小説このごろ』

野村胡堂は『随筆銭形平次 捕物帖談義』でも、張清から、平次のヒントを得たと書いていることを付記しておく。



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