ツワブキ

      2017/03/30

ツワブキ

つわぶきの花が咲きだすと、一年もそろそろ終わるなと思う。地味な、淋しい花である。生活感があるというのは、この花のようなことを言うのだろう。哀愁を感じさえする。
つべこべ言ってないで、ツワブキの用例を、並べる。

まずは、ツワブキの花の用例。

雨ふればふるほどに石蕗の花 山頭火




石蕗つわの葉の霜に尿しとする小僧かな  子規

さびしらに枝のこと/″\葉は落ちし李がしたの石蕗(つはぶき)の花 長塚節

つち澄みうるほひ
石蕗つはの花咲き
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭

室生犀星『抒情小曲集』「寺の庭」

ああ、にっぽんの秋のくれがた
冷い雨が降っていますよ
つわぶきの黄いろい花が眼に沁みる

岡本かの子『仏教人生読本』

その日の朝も、わたくしは此句を黙誦(もくしょう)しながら、寝間着のまま起(た)って窓に倚(よ)ると、崖の榎(えのき)の黄ばんだ其葉も大方散ってしまった梢(こずえ)から、鋭い百舌(もず)の声がきこえ、庭の隅に咲いた石蕗花(つわぶき)の黄(きいろ)い花に赤蜻蛉(とんぼ)がとまっていた。赤蜻蛉は数知れず透明な其翼をきらきらさせながら青々と澄渡った空にも高く飛んでいる。

荷風『濹東綺譚』

秋も忽(たちまち)過ぎ去りぬ。菊の花萎(しお)るる籬(まがき)には石蕗花(つわぶき)咲き出で落葉(らくよう)の梢に百舌鳥(もず)の声早や珍しからず。

永井荷風『矢はずぐさ』

荷風の作品内では、つわぶきと、モズの相性が良いらしい。

 

三十八でこの世を去つた子供の母親がいまゐれば、ことし、五十三である。
 ぼくは、縁さきの、石蕗の花に目を遣つた。……ほとけの死ぬまへ、一ト月ほどゐた熱海の宿の庭にまぶしいほど咲いてゐたこの花である……

久保田万太郎『還暦反逆』

十三夜の月は次第に缺けて闇の夜がつゞく。人は既に袷をきてゐる。雨の夜には火鉢に火をおこす者もある。もう冬である。
 それまでも生き殘つてゐた蟋蟀が、いよ/\その年の最終の歌をうたひ納める時、西の方から吹きつけて來る風が木の葉をちらす。菊よりも早く石蕗(つは)の花がさき、茶の花が匂ふ………。

永井荷風『蟲の聲』

 下草でも茎の強いもので実や穂になつたものは、そのまま冬も刈らずに置くと却つて風雅なものである。石蕗(つわぶき)の花も枯れたまま置くと侘びた姿で春まで残つてゐる。

室生犀星『冬の庭』

次に、ツワブキの花と明確に書かれていないツワブキが描かれる例を挙げておく。

十一月四日初めて霜が降った。それから十一日には二度目の霜が降った。四度目の霜である十二月朔日(ついたち)は雪のようであった。そしてその七日八日九日は三朝続いたひどい霜で、八(や)ツ手(で)や、つわぶきの葉が萎(な)えた。

島崎藤村『新生』

請(こ)う試みに、旧習に従った極めて平凡なる日本人の住家(じゅうか)について、先ずその便所なるものが縁側(えんがわ)と座敷の障子、庭などと相俟(あいま)って、如何なる審美的価値を有しているかを観察せよ。母家(おもや)から別れたその小さな低い鱗葺(こけらぶき)の屋根といい、竹格子の窓といい、入口(いりくち)の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢(みずばち)、柄杓(ひしゃく)、その傍(そば)には極って葉蘭(はらん)や石蕗(つわぶき)などを下草(したくさ)にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後(うしろ)にして立っている有様

永井荷風『妾宅』

どっしりとした古風な石燈籠(いしどうろう)が一つ置いてあって、その辺には円(まる)く厚ぼったい「つわぶき」なぞも集めてある。遠い祖先の昔はまだそんなところに残って、子孫の目の前に息づいているかのようでもある。

島崎藤村『夜明け前』

 地面におろすと、仔犬は珍しいところに出たので、熱心に彼方此方を駆け廻った。
 小さいつつじの蔭をぬけたり、つわぶきの枯れ葉にじゃれついたり、活溌な男の子のように、白い体をくるくる敏捷にころがして春先の庭を駆け廻る。

宮本百合子『犬のはじまり』

引用箇所に「庭を駆け廻る」とあったから書いておくが、おなじみの、雪やこんこ、から始まる歌の歌詞に、犬は喜び庭かけまわり、とある。犬は、雪が降ると喜んで、庭を駆けまわることがあるらしい。「雪とん」や「鰍沢」をやるとき、古今亭志ん生は、異説を提示していた。志ん生によれば、あれは、何も楽しくってかけまわってんじゃなくて、寒くって、腹が減って、自棄で駈けてるそうである。さもありなん。

最後まで読んでくださった方に、豆知識。
尾崎一雄『苺酒』に、腫物ができたら、ツワブキの葉を火であぶって、柔らかくなったのを「べったり」患部に貼り付けたら「確かな効き目があった」とのことである。嘘か真か、実地に試されたらよいと思う。責任は持たない。



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