花和尚魯智深と行者武松と侠客森の石松の力について

      2017/04/04





魯智深に触れる前に、漱石『行人』からまず引用したいところがある。引用部では、一郎の話を、二郎(=自分)が聞いている。

 

「夜になって一寝入して眼が醒めると、明かるい月が出て、その月が青い柳を照していた。それを寝ながら見ているとね、下の方で、急にやっという掛声が聞こえた。あたりは案外静まり返っているので、その掛声がことさら強く聞こえたんだろう、おれはすぐ起きて欄干の傍まで出て下を覗いた。すると向に見える柳の下で、真裸な男が三人代る代る大な沢庵石の持ち上げ競をしていた。やっと云うのは両手へ力を入れて差し上げる時の声なんだよ。それを三人とも夢中になって熱心にやっていたが、熱心なせいか、誰も一口も物を云わない。おれは明らかな月影に黙って動く裸体(はだか)の人影を見て、妙に不思議な心持がした。するとそのうちの一人が細長い天秤棒のようなものをぐるりぐるりと廻し始めた……」
何だか水滸伝のような趣じゃありませんか」
「その時からしてがすでに縹緲(ひょうびょう)たるものさ。今日になって回顧するとまるで夢のようだ」

兄はこんな事を回想するのが好であった。そうしてそれは母にも嫂(あによめ)にも通じない、ただ父と自分だけに解る趣であった。      

漱石『行人』

 

 

閑人(筆者のこと)も、この趣はわかる。陶然とした気持ちになる。それを共有したく長々と引用をしておいた。

神社なんかに行くと力石があったりする。(博多の櫛田神社にも多数あったと記憶する。)力石は、「持ち上げ競」に使われたものであるそうで。水滸伝中に、行者武松が、施恩と、囚人たちの前で、四五百斤の円石を持ち上げて、放り投げ、受け止める様子が描かれている。漱石『行人』の一郎の話をきいたとき、二郎のあたまには、その箇所が浮かんだのだろう。ちなみに、『三国志演義』では、関羽雲長の青龍偃月刀は、八十二斤としてあり、『水滸伝』では、魯智深の錫杖は、六十二斤としてある。

力持ちが、石を持ち上げるのならまだよいが、木を引っこ抜くとなると穏やかでない。紀貫之の娘ではないが、木一つ動かすのにつべこべ言う人もいる世の中である。めったに木なんか引き抜こうという料簡なぞおこすものではない。


魯智深は、あだ名を花和尚といい、全身に入れ墨を彫っていた。生臭坊主であった。最も、女性をどうこうしたという話はない。もっぱら、酒、喧嘩である。ごろつきどもが、この柳に巣くっている烏が日がな一日うるさいから、梯子でのぼって巣を壊しちまえ、そう言ってると、きいていた魯智深、柳の木を引っこ抜いた。それを見てからというもの、ごろつきどもは、魯智深にひれ伏するは、毎日酒と肴を持ってくるは。これは、魯智深が、大相国寺の菜園の管理をまかされたころの逸話。

魯智深は、任侠肌で、まっすぐな性格で、そのせいか人気があった。閑人は、確か明治期の写真で背中に魯智深の入れ墨を彫った人を見たことがある。花和尚の刺青をする人物についての記述を幸田露伴『侠客の種類』より引用しておく。

「水滸伝」の翻訳したのは馬琴蘭山を待つて大に行はれたのであるが、其の後盛んに芝居にも行はれ、魯智深、史進、李逵、浪裡白跳張順など痛く彼等の理想に投じたものがあつたらしく、其の背に彼等の花繍などをせぬならば、大哥の面目を損じた様な風を形づくつた。徳川末期の市井の状態の書き物を見ると、斯んな風俗が盛んに行はれた事が解る。

幸田露伴『侠客の種類』

アニイと呼ばれるようになるためには、がまんが必要というわけであろう。

泉鏡花は、年少のころ『水滸伝』に夢中になったと『いろ扱ひ』に書いている。特に、魯智深は、鏡花の好む豪傑であったのか、「魯智深」という文字がでてくる作品が少なからずある。(『吉原新話』、『十和田湖』他)人は、自分にないものに惹かれるのかもしれない。閑人(筆者のこと)は、『水滸伝』に夢中であった頃、器用な燕青が好きであった。

 

力を示すため、木を引き抜こうとするという枠組みでは、二代目広沢虎造浪曲全集中の「清水次郎長外伝 名月清水港」を想起できる。該当箇所のあらましを書いておく。

 

清水の次郎長親分は、森の石松が来るのを首を長くして待っている。やっと来た石松が、こんなことがあったんだと話し出す。袖師の渡し場で、雲助たちが大勢集まって 大きな樫の木を囲んで力比べをしていた。かわるがわるかかったんだが木を持ち上げるどころが枝一本動かない。雲助の一人が、じっと見ている石松に、「清水一家の石松は強いと聞くがその力をまだ実際に見たことはない。両手で見事差し上げてみておくんなさい。」といった。石松は、はばかりながら清水一家の森の石松にはこのくらいの力があるってことを後学のために見ておけといって、もろ肌脱いで、ひと呼吸ふた呼吸入れて 樫の木にうんとばかりに手をかけた。樫の木を持ち上げるような顔をして、雲助たちをじっと見ていた。雲助たちはかたずをのんでみている。石松は、えへんと咳払いして、もろ肌脱いだ着物を着る。石松は雲助たちに、「あー、おそろしいおそろしい、おめえたちのおかげで俺はとんだ災難をこうむるところだった。おめえたちは、この樫の木をなんと心得るんだ。五月の安倍川の大洪水が流した赤石山の蛇松だぞ。」といった。駿河の雲助は赤石様を信仰していて、境内の御神木に、枝一つ手をかけると孫子の代まで祟りがあるとおそれていることを石松は、悪用したのである。雲助たちは、汚い手で触ったので祟りがあると脅され、歯の根も合わず震えだした。石松が「塩もってこい。清めるんだ。」といえば、雲助連は、力くらべのことなんぞすっかり忘れてしまい、石松に「おめえの力で赤石様に詫びをしてくれ。」といった。石松は、頃合いを見て、ずらかった。石松は、話し終わって、「おれは雲助どもに恥もかかねえで、親分はじめみんなの顔も汚さねえで、無事に帰ってきましたよ。」

 

木を引き抜けなくて、頓智でもって、その場を切り抜けるところ、いかにも日本の豪傑らしい。日本の豪傑は、中国のそれにくらべて、豪快さがなく、小ぶりで人間味がある。森の石松、花和尚魯智深ともに、天衣無縫という点が共通しているだろう。

 

芥川龍之介『大導寺信輔の半生――或精神的風景画――』でも、「魯智深」への言及がなされる。ついでに書いておくが、芥川は、『愛読書の印象』で、水滸伝を愛読書の一つに挙げている。

彼は又何度も木剣を提げ、干し菜をぶら下げた裏庭に「水滸伝」中の人物と、――一丈青扈三娘や花和尚魯智深と格闘した。この情熱は三十年間、絶えず彼を支配しつづけた。彼は度たび本を前に夜を徹したことを覚えている。いや、几上、車上、厠上、――時には路上にも熱心に本を読んだことを覚えている。

芥川龍之介『大導寺信輔の半生――或精神的風景画――』

 

 

閑人(筆者のこと)も、三国志演義をよみながら登校していたときがあった。倒れている自転車に足をとられて派手にこけて、歩きながら本を読むときは、足元に注意しなければならないと悟ったことを思い出す。

 

福永武彦が歩きながら本を読んで怪我したとかなんとかいう文章を堀辰雄が書いていたように思う。

二宮金次郎も、薪をしょって黙って本ばかり読んでないで、歩きながら本を読む心得を後世に残しておいて然るべきである。石像や銅像ばかり残しても、始末に困る。

二宮金次郎に触れたついでに書いておく。五代目古今亭志ん生演ずる「鰻の幇間」では、鰻屋の二階の床の間に二宮金次郎の掛け軸がかけてある。江戸時代、鰻屋は、男女が語らう大変に粋な場所であった。鰻屋になるための修行も辛かろうが、なったあとも、さぞ辛かろう。世の中には、綺麗な女性が多いのだから。鰻屋は、やいてばかりの人生で。



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