落語「二階ぞめき」のおかしなところ

      2017/03/27

 吉原をひやかす人物といえば、佐々木味津三『旗本退屈男』の早乙女主水之介alias旗本退屈男や、落語「二階ぞめき」の若旦那を、私は連想する。

 

 三代目古今亭志ん朝が、親父の五代目志ん生の「二階ぞめき」を高く評価していたということを、第五十八回早起き名人会で、きいた記憶がある。岩波鏡花全集収録の『露肆』では「橙背広のこの紳士は、通り(がか)りの一杯機嫌の素見客(ぞめき)でも何でもない。」と「素見客」に「ぞめき」とルビをふってある。「ぞめき」とは、素見客、つまり、ひやかし客のことである。

 

 「二階ぞめき」の梗概を記しておく。主に、五代目古今亭志ん生の高座の録音を参考にした。




 

 若旦那は、毎晩毎晩遅く帰ってくる。吉原をひやかして歩いて帰ってくるのである。こんなことが続くようだと、若旦那を勘当すると大旦那は言っている。番頭が、若旦那に意見をする。毎日行くんではなくて、たまになさい。若旦那は、無理だと突っぱねる。それでは、と番頭が、女を落籍して、囲いものにして、昼遊ぶよう勧めると、若旦那のいうには、俺は、女が好きで吉原に行くんではないんだ、吉原が好きなんで行くんだ。番頭は、若旦那が、女に惹かれて吉原に行くのではなくて、ひやかして歩くのが好きで吉原に行くのだということを突き止めると、出入りの大工の棟梁に頼んで、店の二階がひろいから、そこを吉原のようにこしらえて、そこをひやかして歩いたらどうかと若旦那に持ちかける。若旦那は乗り気になる。かくして、店の二階に、「吉原」ができる。できたと聞いた若旦那は、すっかりひやかしのこしらえをして、店の二階にひやかしにいく。一人だと気分が出ないから、一人三役くらい演じながらひやかす。そのうち若旦那は、一人で喧嘩の熱演をやりだした。大きな声を出していたものだから、下の大旦那の耳にも声が届く。大旦那は、二階で若旦那が誰かと喧嘩をしていると思い、大きな声を出すなといわせに小僧の定吉を二階にやる。定吉と顔を合わせた若旦那は、悪いところで、会っちゃったなあ。うちに帰ったら、ここで俺にあったってこと、親父に黙っててくれよ。

 

 

 志ん生の高座の録音をきくと、出来上がった店の二階の「吉原」に若旦那がひやかしに行くところで、二階の「吉原」が完成して初めて二階に上がった、というように演じられている。若旦那に大旦那の小言を伝えに上がってきた、定吉もしかり。立川談志演ずる「二階ぞめき」でも、若旦那、定吉共に完成してから初めて二階に上がったという風になっていた。ただし、談志師匠の定吉は、二階には行くんじゃないと番頭から言われていたということになっている。普通に考えると、大工が二階で仕事をしているからといって、長いあいだ二階に行かないということはありえないのではないだろうか。まして、若旦那は吉原が好きなのであるし、定吉も好奇心旺盛な年頃である。パンドラではないが禁止されていたら余計見たくなろうというもの。奉公人の数にもよるのだろうが、二階の掃除を、定吉が一度もしないというのも、不自然である。

 談志は、落語なんだから、二階に吉原だってなんだってできるんだ、という意のことを高座で言っていたようだが、そんなことを言うということは、それだけ、この話の不自然なところを認識していたのだろう。定吉が、番頭から二階に行くなと言われていたという風にしているのも、噺に整合性を持たせようとする談志の意識の表れとみてよいであろう。

 

 

 落語は、読むものでなく、見聞きするものであるから、若旦那と小僧の定吉が、初めて二階に上がったという風にしないと、盛り上がりに欠け、演じにくいという部分もあるだろう。初めてではないとすると、説明が沢山いるだろうし、噺が長くなって、滑稽味が少なくなるだろう。客を笑わせるには、噺を運ぶテンポも重要である。

 

 

 どこまで、噺に整合性をもたせるのか、これは難しいところがある。「頭山」なんぞは、論理的に考えたらなんともわからない噺である。「頭山」に、論理を持ち込むと、噺が破綻してしまう。論理的に考えても、まったく破綻しない噺もある。けれど、そんな噺も少し、説明を欠かしたり設定を変えたりすれば、たちまち論理的ではなくなってしまうことだってあるだろう。論理的に噺の隅々まで解釈できるようにすると、噺としての完成度は高くなるのかもしれないが、その分イリュージョンが少なくなるだろう。完成度を求めるのか、イリュージョンを重視するのか、落語家の中に渦巻く思いを些細な表現から味わうということも、落語を「鑑賞」するということになるのかもしれない。いわゆる、幻想文学というものにも、似たようなところがあるだろう。

 

 

 閑話休題。女の子を見て、ひやかして歩くのは、実際に遊ばないので清いようにも見えるが、その実、ひやかし客の胸裏は、そういつも清いわけでもあるまい。マタイの福音書によれば、視姦について、神の子イエスが語っていたらしい。「女の人をみだらな気持ちで見たならば、その目をくりぬいちまえ。全身が地獄に落ちるよか、目だけ地獄に落ちたほうが良い。」とかいうことを言ったのだとか。ひやかし客に両の目玉がそろっていない人が多かったという記録は、管見では、無いようだが、これは、江戸時代キリスト教が執拗に取り締まられていたことと関係があるのだろうよ。閑話のまま、これで、終える。



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