大隈重信伯爵家の台所

   

大隈重信伯爵家の台所

明治大正期によく読まれた本で、『食道楽』なるものがある。作者の村井弦斎は、十二人分の仕事をしたそうな。(注 「十二人分の仕事をした」は、閑人の記憶で言っているので、信じるに足らず。)村井弦斎が、とかく、真面目な人であったであろうことが、その著書を読めば、ひしひしと伝わってくる。『食道楽』は、啓蒙のために書かれた。新聞連載小説であったのであるが、下手をすると、その日の食道楽は、ほとんどレシピばかりということも多々あった。『食道楽』は、岩波文庫から上下に分かれて出ていて、手軽に読めるようになっている。挿絵もあって面白い。上巻の一番目の挿絵について言及されている箇所から引用する。




○大隈伯爵家(おおくまはくしゃくけ)の台所(口画(くちえ)参看)

 巻頭の口画に掲げたるは現今上流社会台所の模範と称せらるる牛込(うしごめ)早稲田大隈伯爵家の台所にして山本松谷(やまもとしょうこく)氏が健腕を以て詳密に実写せし真景なり。台所は昨年の新築に成り、主人公の伯爵が和洋の料理に適用せしめんと最も苦心せられし新考案の設備にてその広さ二十五坪、半(なかば)は板敷(いたじき)半はセメントの土間にして天井におよそ四坪の硝子明取(がらすあかりと)りあり。極めて清潔なると器具配置の整頓(せいとん)せると立働(たちはたら)きの便利なると鼠(ねずみ)の竄入(ざんにゅう)せざると全体の衛生的なるとはこの台所の特長なり。口画を披(ひら)く者は土間の中央に一大ストーブの据(すえ)られたるを見ん。これ英国より取寄せられたる瓦斯(がす)ストーブにて高さ四尺長さ五尺幅弐尺あり、この価(あたえ)弐百五十円なりという。ストーブの傍(かたわら)に大小の大釜両個(ふたつ)あり。釜の此方(こなた)に厨人(ちゅうじん)土間に立ちて壺(つぼ)を棚に載(の)せ、厨人の前方板にて囲(かこ)いたる中に瓦斯竈(がすかまど)三基を置く。中央の置棚(おきだな)に野菜類の堆(うずたか)く籠(かご)に盛られたるは同邸の一名物と称せらるる温室仕立の野菜なり。三月に瓜(うり)あり、四月に茄子(なす)あり、根葉果茎一として食卓の珍ならざるはなし。下働きの女中、給仕役の少女、各その職を執(と)りて事に当る。人も美しく、四辺(あたり)も清潔なり。この台所に入(い)る者は先(ま)ず眉目(びもく)に明快なるを覚ゆべし。
 この台所にては毎日平均五十人前以上の食事を調(ととの)う。百人二百人の賓客(ひんかく)ありても千人二千人の立食を作るも皆(み)なここにて事足るなり。伯爵家にては大概各日位に西洋料理を調えらる。和洋の料理、この設備に拠(よ)れば手に応じて成り、また何の不便不足を感ずる所なし。 村井弦斎『食道楽』

村井弦斎、人の家の台所の器具の値段までよく調べたものだと思う。大隈伯家で働く料理人は、さぞかし幸せだろうと思うかもしれないが、そうとばかりも言えないらしい。薄田泣菫『茶話』の「料理人の泣言」から引用しておく。

 大隈伯の台所に長く働いてゐる或る料理人の話によると、伯爵家の台所はかなり贅沢(ぜいたく)なものだが、それとは打つて変つて伯自身のお膳立(ぜんだて)は伯爵夫人のお心添(こゝろぞへ)で滋養本位の柔(やはらか)い物づくめなので頓(とん)と腕の見せどころが無いさうだ。また味加減をつけるにも、例の口喧(くちやかま)しい伯の事とて他(ひと)一倍(ばい)講釈はするが、舌は正直なもので、何でも鹹(しよ)つぱくさへして置けば恐悦して舌鼓(したつゞみ)を打つてゐるといふ事だ。
 この料理人の言葉によると、「伯の腰巾着で仕合せなのは武富(たけとみ)や尾崎や高田で、それぞれ大臣の椅子に日向(ひなた)ぼつこをしてゐるが、自分一人は折角の腕を持ちながら一向(かう)主人に味はつて貰へない」のださうだ。(中略)腕のある料理番は、忘れても田舎者の大統領や総理大臣の台所には住み込まない事だ。料理が味はつて貰へない上に、事によると給金までも安いかも知れない。   薄田泣菫『茶話』

最も、薄田泣菫は、たびたび大隈伯のことをネタにして、大いに皮肉っているから、言葉額面通りではなく、少し割り引いて読まないといけないのかもしれない。「この料理人の言葉によると、」のあとは、「」をもちいて、いかにも料理人の言葉をうつしたような体裁にしているが、料理人(実在するかは知らねど)の言葉そのまま厳密に写生したという確証はないのだから。



 - その他