鼻毛

      2017/04/12

鼻毛




今回は、鼻毛についてまとめる。
鼻毛といわれて私が、先ず連想するのは、漱石『吾輩は猫である』㈢である。

「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体で、ふっと吹いて見る。粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに頑固だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大いに不平な気色を両頬に漲なぎらす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交じる中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入る。

夏目漱石『吾輩は猫である』(三)

『硝子戸の中』にも、鼻毛を抜く人々が描かれる。寄席の様子を回想している箇所。

 

帳場格子のうちにいる連中は、時間が余って使い切れない有福な人達なのだから、みんな相応な服装をして、時々呑気そうに袂たもとから毛抜けぬきなどを出して根気よく鼻毛を抜いていた。そんな長閑な日には、庭の梅の樹に鶯が来て啼くような気持もした。

漱石『硝子戸の中』(三十五)

鼻毛ではないが、男が毛抜きを使って毛を抜く描写は『二百十日』にもみられる。
 

隣り座敷の小手(こて)と竹刀(しない)は双方ともおとなしくなって、向うの椽側(えんがわ)では、六十余りの肥(ふと)った爺(じい)さんが、丸い背(せ)を柱にもたして、胡坐(あぐら)のまま、毛抜きで顋(あご)の髯(ひげ)を一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑(おさ)えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾(は)ね返り、顋(あご)は上へ反(そ)り返る。まるで器械のように見える。

漱石『二百十日』

毛の中には、剃るもの、抜くもの、ねじるもの(髭)、切るもの様々あるだろうが、漱石の作品中では、鼻毛は抜くものとして扱われていることがわかる。漱石の作品中では、鼻毛に関して言えば、抜く描写以外はない。漱石の作品中では、毛はどのように処理される傾向にあるのか、「ムダ毛処理方法一覧表」とでもいうものを作ってみたら面白かろう。

織田作之助『夫婦善哉』にでてくる、蝶子と柳吉が営む店では、鼻毛抜きが売られている。

瞬(またた)く間に剃刀屋の新店が出来上った。安全剃刀の替刃(かえば)、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切(つめき)りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、
織田作之助『夫婦善哉』

鼻毛を抜くのが当たり前であったのではないかとみる向きもあるだろうから、鼻毛を切るとしてある例を挙げておく。

レヤ。「日記をつける事と、固パンを買って置く事と、鼻毛を時々はさむ事と、ああ、もう船が出ます。お父さん、お達者で。むこうに着いたら、ゆっくりお便りを差し上げます。オフィリヤ、さようなら、さっき兄さんの言った事を忘れちゃいかんよ。」
沙翁のハムレットにこのような一節はあるのか。私以上に暇という方は、探してみてください。

太宰治『新ハムレット』

このごろ私は、毎朝かならず鬚(ひげ)を剃(そ)る。歯も綺麗に磨く。足の爪も、手の爪も、ちゃんと切っている。毎日、風呂へはいって、髪を洗い、耳の中も、よく掃除して置く。鼻毛なんかは、一分も伸ばさぬ。眼の少し疲れた時には、眼薬を一滴、眼の中に落して、潤いを持たせる。

太宰治『新郎』

一分も伸ばさぬというのが比喩でないとは言い切れない。しかし、字面通りにとるならば、新郎の「私」は、鼻毛を切っていたということになるだろう。

たつた一度の見合ひで、その娘はおれのところへ嫁さんに来た。祝儀のすんだその晩から、おれは、世にもあきれた亭主にされてしまつた。なぜかといへば、この女、おれを自分好みの男に仕たてるつもりかなにか、一挙手一投足に干渉しはじめた。やれ、イビキをかくな。やれ、字がまづいから手習ひをしろ。やれ目下のものに敬語を使ふな。やれ、交際費を予算以内で使へ。やれ、子供は二年たたなければ生みたくない。やれ、立膝をするな。やれ、鼻毛を切れ。それも、毎日、立てつゞけに、あれをしろ、これをするな。まつたく、やりきれたもんぢやない。

岸田國士『女人渇仰』

まとめがないと、読んだ気がしないという方もいらっしゃるだろうから、まとめを付しておく。鼻毛を抜くにしても髭を抜くにしても、今漱石の作品から引用した箇所に限って言えば、人目を気にしてするのではないようである。人目につくところで、毛をいじくっている。
一方で太宰の作品から引用した箇所で、鼻毛を切るというのは、過分に人の目を意識してのことである。あるいは、礼儀といってよいかも知れない。漱石は漢籍の素養深く、したがって東洋的な逸民乃至、仙骨のある人物を描き得たのであろう。太宰が見られることに関心を払った人であったことは周知のことである。鼻毛の処置ひとつをとっても、作家の教養なり、意識なりが表出しているようで、意外と面白いものがある。まとめというものは、このように往々にして、うまくいかないものだが、うまくいかなくても、書いた本人は消すのが惜しくなるから、妙なものである。
閑話休題。鼻毛を切る分には良いが、鼻毛を抜く際は危険が伴う。

Fは口から血を吐いた。Mは盲腸炎で腹を切つた。Hは鼻毛を抜いた痕から丹毒に浸入された。

横光利一『盲腸』

丹毒になったらたまらないと、鼻毛の手入れをしない口実を見つけた諸兄に告ぐ。あなた方は、自分を見失うこともないのであります。色恋に縁がなくなるのだから。しばらく黙って以下を読まれたい。
鼻毛を伸ばしっぱなしにしているのは人目を気にしない男のトレードマークのようなもの。こういった男は、色恋に縁がない。女の場合もしかり。芥川龍之介『鷺と鴛鴦』にも、鼻毛を伸ばして、男からげんなりされる女性が描かれている。豊島与志雄『塩花』にも、恋するものは鼻毛を伸ばすでないという意の指摘がある。

鼻毛と指先のささくれ、これが何より禁物である。そういう身だしなみを、恋する者は当然に持たなければならない。なぜなら、恋は精神の美しさを要求し、その表現たる身体の清潔さを要求するからだ。当事者にとって、恋はすべて美しく清く、恋人はすべて美しく清く、随って恋する者自身も、美しく清くあらねばならぬ。

豊島与志雄『塩花』

ロシアにおいてもそうであるらしい。

ところで、その夜会に出席する支度に彼はたっぷり二時間の余(よ)もかかったが、この際彼が身じまいに払った入念さ加減は、ちょっと他に類のないものであった。食後に少し午睡(ごすい)をとった後、洗面の用意を命じた彼は、両方の頬を代る代る、中から舌でつっぱりながら、おそろしく長いこと石鹸で磨き立てたが、やがて給仕の肩からタオルをとると、相手の鼻の前(さき)でまず二度ばかりブルルっと鼻を鳴らしてから、耳の後ろから手始めに、その丸々した顔をまんべんなく拭きあげた。それから鏡に向って胸当をつけ、鼻の孔からのぞいていた鼻毛を二本ひっこ抜くと、間髪を入れず、ピカピカ光る蔓苔桃(つるこけもも)いろの燕尾服を著(つ)けていた。こんな風にして身装(みなり)をととのえると、

ニコライ・ゴーゴリ『死せる魂 または チチコフの遍歴 第一部 第一分冊』平井肇訳

鼻毛を伸ばしていたら、色恋に縁がなく、異性にもてようとする心があれば、鼻毛が伸びるようで。とかくむつかしか。夢野久作の文を引用するけん、博多弁を使ったったい。

 主として性格を表わす分では、前に挙げました「鼻つまみ」の外にもっと主観的な形容の方では「鼻下長(びかちょう)」とか「鼻毛が長い」という言葉もあります。もあります位ではない、随分と方々で承わるようであります。
 御知合いの中(うち)においでになるかも知れませぬが、お美しい夫人を持たれて内心恐悦がっておられるお方や、すこし渋皮の剥(む)けた異性さえ見れば直ぐにデレリボーッとなられる各位の鼻の表現を指したもので、何も必ずしも具体的に鼻の下や鼻毛が長いという意味ではありません。唯そうした方々のそういったような心理状態を鼻が表現しているために、こういったような形容詞を用いたものらしく考えられるのであります。
 その証拠には事実上の鼻下長の方でも、随分鼻の下や鼻毛の切り詰まった方が多いのであります。これに反して鼻の下がレッテルの落ちたビール瓶のようにのろりとしていたり、鼻毛が埃を珠数つなぎにする程長かったりする人でも、猛烈に奥様を虐待される方があります。
 つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしているところがあります。そのために鼻の付近に緊張味が無くなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非も無い鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。

夢野久作『鼻の表現』

「鼻毛が長い」という表現が利かされている用例を拾っておく。

女房たちまち顔色を変え眼を吊り上げ、向う三軒両隣りの家の障子が破れるほどの大声を挙げ、
「あれあれ、いやらし。男のくせに、そんなちぢれ髪に油なんか附けて、鏡を覗き込んで、きゅっと口をひきしめたり、にっこり笑ったり、いやいやをして見たり、馬鹿げたひとり芝居をして、いったいそれは何の稽古のつもりです、どだいあなたは正気ですか、わかっていますよ、あさましい。あたしの田舎の父は、男というものは野良姿のままで、手足の爪の先には泥をつめて、眼脂も拭かず肥桶をかついでお茶屋へ遊びに行くのが自慢だ、それが出来ない男は、みんな茶屋女の男めかけになりたくて行くやつだ、とおっしゃっていたわよ、そんなちぢれ髪を撫でつけて、あなたはそれで茶屋の婆芸者の男めかけにでもなる気なのでしょう、わかっていますよ、けちんぼのあなたの事ですから、なるべくお金を使わず、婆芸者にでも泣きついて男めかけにしてもらって、あわよくば向うからお小遣いをせしめてやろうという、いいえ、わかっていますよ、くやしかったら肥桶をかついでお出掛けなさい、出来ないでしょう、なんだいそんな裏だか表だかわからないような顔をして、鏡をのぞき込んでにっこり笑ったりして、ああ、きたない、そんな事をするひまがあったら鼻毛でも剪んだらどう? 伸びていますよ、くやしかったら肥桶をかついで、」とうるさい事、うるさい事。

太宰治『新釈諸国噺 – 破産』

髭に続いて差(ちが)いのあるのは服飾(みなり)。白木屋(しろきや)仕込みの黒物(くろいもの)ずくめには仏蘭西(フランス)皮の靴(くつ)の配偶(めおと)はありうち、これを召す方様(かたさま)の鼻毛は延びて蜻蛉(とんぼ)をも釣(つ)るべしという。

二葉亭四迷『浮雲』

最後に、書いておくが、この記事に鼻毛そのものの写真をのせなかったことを読者諸兄は感謝してくれないといけない。



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