太宰治『人間失格』と高田保「恋文」の類似点について
2017/04/15
太宰治『人間失格』と高田保「恋文」の類似点について
太宰治『人間失格』と高田保「恋文」とには、ほんの一部であるが、似たところがある。
該当箇所を引用しよう。
まずは、太宰治『人間失格』から。
「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」
「光栄だわ、飲んでよ」太宰治『人間失格』
これはまた別なある男、捨てかねたがしかし、いつまでそのまゝにもして置きかねた。そこであれこれ思案の末に、それで風呂を沸かしたといふ。大した分量だとまづそれに驚かされるが、恋文風呂、果して首尾よくいゝ気持に温まれたかどうか、御本人はいゝ気持だつたらうが、それを貰ひ風呂した奴はどうだつたか、悪性の風邪など引き込んだかも知れない。
高田保『恋文』
発表された年は・・、面倒だから省略しておくが、『人間失格』、「恋文」の順である。
吉行淳之介が『贋食物誌』に書いているが、毎日書くのは大変だそうである。高田保もネタに詰まって、それで、『人間失格』から思いついたギャグを書いた可能性はあるのだろうか。
だが、考えてみたら、このようなギャグは、典拠がなくとも思いつきそうなものである。仲の良い男女の間では取り交わされそうな冗談だ。
もしかすると、当時、こんな冗談がよく言われていたのかもしれないと思ったりもしたが、そうであれば、そうわざわざ紙面に載せるべく書かないような気もする。
太宰、高田保共に、ある本を見て思いついたギャグかもしれない。江戸期のものだとかにないだろうか。
あるいは、太宰が『人間失格』の大庭葉蔵のように 少年雑誌だとかを経由して人を笑わせるネタをたんと持ったのであれば、太宰の幼少期の雑誌を片っ端からめくっていけば、そんなギャグを見つけることができるのかもしれない。
それを知ったところで何になるのか、と言われれば、一言もない。閑人の遊戯の一形態でしかないのかもしれない。
さんざっぱら、引っ張っておいてから、書くが、引用箇所に続く箇所では、昔の恋人が夫を連れて遊びに来たので、その女からもらった恋文で茶を沸かしたという男の話が紹介されている。ちゃんと断り書きがある。曰く、「作り話と聞えるだらうが、これも実話である。」。「これは」、ではなく「これも」とあるのである。先の、風呂を恋文で沸かした男の話は、実話としてあるようである。したがって、典拠云々の今までの話は、なし!ここまで読んだ方、ご苦労様でした!こうしたイタズラをするのも、閑人の遊戯の一形態。
こんなことをやっていたら、敵を作るだろうから、もう少し書いておく。実話とされているからと言って、実話であるという保証はないわけであるし、男なる者の存在が、嘘をさも実話のごとく言っているのかもしれない。なんたって、実話と言っている人は、その現場に居合わせたのではないのだから。やはり、ひな形があるのかもしれない。
気が小さいと、人を担ぐこともできやしない。
太宰治「俗天使」には、ない箇所である。太宰治による大庭葉蔵の性質である、「お道化」、演出ともとれる。