井伏鱒二『山椒魚』と五代目古今亭志ん生演ずる「雪とん」中のくすぐりの類似性

      2017/03/27

 井伏鱒二の作品に、独特のユーモアがあるということは、井伏氏の作品を読んだことがある方には当たり前のことで、目新しい指摘でも何でもないだろう。しかし、このユーモアを説明するということは、存外難しいもので。ここがこうこうこうだから、ここには、ユーモアがあるんですと、理詰めで説明することは、そう簡単なことではない。




 けれど、ユーモアにあふれた二つの似たような話を並べてみたら、誰か、ユーモアの説明をつける糸口を見つけることができるかもしれない。そんな思いをもってこの記事を書いている。

 井伏鱒二『山椒魚』では、成長して、自身の「棲家である岩屋」から出られなくなっている山椒魚が描かれている。大きくなったので自分の家から出られないという設定が、間が抜けていて、とぼけていて、笑いを誘う。ほんとうにそんなことがあるのかね?という気になる。

 五代目古今亭志ん生演ずる「雪とん」中のくすぐりの一つに、似たようなものがあることを指摘しておきたい。どんなものか。あらましを書いておく。

 釣りをしていて、なんかかかった。シメタと竿をあげると、なかなかひきあげられない。やっとのことでひきあげると酒屋の貧乏徳利。おかしいなと思ってみると、糸が徳利の中に入っている。そこで、徳利を壊してみるとナマズがいた。そのナマズは小さい時分に徳利の中に入って遊んでたのだ。それが大きくなって出られなくなったので。
 お客が大いにわくのは、ナマズが小さい時、徳利の中に入って遊んでいたら、大きくなって出られなくなった、という意のことを志ん生が言ったときであることが録音で確認できる。ただし、その場の雰囲気、志ん生の身振り、表情がわからないから、お客が、話の内容だけで笑ったという保証はない。


 ユーモアについて、研究しようとなさる方のために少し駄弁をふるっておく。まずは、ユーモアとは何かを、しっかりご自分なりにつかむことが大切であろう。具体的な方法としては、まず、ユーモア小説なり、なんなり、ユーモアがあると言われているものを片っ端から見聞きして、それとご自身の中にあるユーモアとはこんなものだという考えとを照らし合わせてみるといったことをしたらよいだろう。
加えて、ユーモアと似た言葉と、ユーモアとはどこが共通していて、どこが違うのか、突き詰めて考える必要があるだろう。例えば、ユーモアと、ウイットとは、どこが共通していて、どう違うのかについて考えてみることが必要とされるだろう。
そうしたうえで、ユーモアが生み出される仕組みは、説明出来るようになるのである。
これは、ユーモアについて考えて、成果が出せなかった者の考えである。



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