日本近代文学中の〈祝祭〉瞥見

      2017/03/21

日本近代文学中の〈祝祭〉瞥見        
  
以下、日本近代文学に見られる〈祝祭〉について見ていく。(特に、凱旋門に注目をして。)

その代り西洋は写真で研究している。パリの凱旋門だの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。…(注、…は省略。)
夏目漱石『三四郎』




 余は模糊たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの歐羅巴の新大都(閑人注 新大都=ベルリン)の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。…晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑なきも宜なり。
森鴎外『舞姫』

上記のように西洋の凱旋門は漱石・鴎外の作品中にも描かれている。
『三四郎』中の「西洋は写真で研究している」広田先生は第一高等学校の教授である。
『舞姫』の引用部では官費留学生の太田豊太郎がブランデンブルク門なる凱旋門に目を奪われている様子が読み取れる。広田先生、豊太郎という2人の明治を代表する知識人を瞠目させる、あるいは少なくとも着目するに足るものとして凱旋門は描かれているといえよう。漱石『三四郎』は明治41(1908)年発表された。この時期にはすでに日本においても凱旋門がつくられていた。1908年までに日本は二つの対外戦争を経験していた。すなわち、日清戦争と日露戦争である。両大戦中の内地のようすは、当然のことながら近代文学作品中に多く描かれた。たとえば旅順を日本軍が占領したときの日本臣民がどううけとめたかが太宰治『惜別』、漱石『我輩は猫である』に描かれている。

「どうも好い天気ですな、御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」
漱石『吾輩は猫である』

ついに、明治三十八年、元旦、旅順は落ちた。二日、旅順陥落公報着したりの号外を手にして仙台市民は、湧きかえった。勝った。もう、これで勝った。お正月のおめでとうだか、戦勝のおめでとうだか、わけがわからず、ただもう矢鱈におめでとう、おめでとう、と言い、ふだんあまり親しくしていない人の家にまでのこのこ出掛けて行ってお酒を死ぬほどたくさん飲み、四日の夜は青葉神社境内において大篝火を焚き、五日は仙台市の祝勝日で、この朝、十時、愛宕山に於いて祝砲一発打揚げたのを合図に、全市の工場の汽笛は唸り、市内各駐在所の警鐘および社寺備附の梵鐘、鉦太鼓、何でもかでも破裂せんばかりに乱打し、同時に市民は戸外に躍り出で、金盥、ブリキ鑵、太鼓など思い思いに打鳴らして、さて一斉に万歳を叫び、全市鳴動の大壮観を呈し、さらにその夜は各学校聯合の提燈行列があり、私たちは提燈一箇と蝋燭三本を支給され、万歳、万歳と連呼しながら仙台市中を練り歩いた。
太宰治『惜別』

また、日露戦争の祝勝会の日が漱石『坊っちゃん』に描かれている。
  

祝勝会で学校はお休みだ。練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。
漱石『坊っちゃん』

いよいよ、日本軍が帰還するとなると、日本でも凱旋門がつくられた。日本軍が旅順を占拠して日本海海戦で勝利をおさめた後、帝都東京に凱旋した日本軍が漱石『趣味の遺伝』に描かれる。

例の通り空想に耽りながらいつしか新橋へ来た。見ると停車場前の広場はいっぱいの人で凱旋門を通して二間ばかりの路を開いたまま、左右には割り込む事も出来ないほど行列している。何だろう?
漱石『趣味の遺伝』

ここから日露戦争からの凱旋のおり「凱旋門」が新橋の駅前にあったことがわかる。漱石の他にも牧野信一『肉桂樹』、『淡雪』、島崎藤村『芽生』から日露戦争からの凱旋のおり凱旋門がつくられたことがうかがえる。

然し鯛ちやんは僕が描く日本海大戦の場面や凱旋門の光景に絶大な喝采を惜まず次々のものを望むので、僕は当惑した。
牧野信一『肉桂樹』

「凱旋門を見に行くんです。」 「ひとりでか?」 「藤ちやんが新橋まで迎へに来てゐる筈なの。」
牧野信一『淡雪』

須田町で本郷行に乗換えた。万世橋のところに立つ凱旋門は光って見えたかと思うと復た闇に隠れた。
島崎籐村『芽生』

凱旋門は日清戦争のおりもつくられていた。泉鏡花『凱旋祭』に次のような記述がある。

凱旋門は申すまでもなく、一廓数百金を以て建られ候。
泉鏡花『凱旋祭』




『帝都の<祝祭>』では、これらの凱旋門は木や布でつくられていたことが明らかにされている。(引用省略)
一葉の『水の上』1895年6月1日に次のような記述があり、一定期間がすぎると凱旋門はとりこわされていたことが分かる。

凱旋門も今日は取くつさんとすなと聞くにそは情なし千載の一事といふ此大いわひにあひなから空しくその門さへ見過くさんや さらばこれよりけい古終らは直にゆかん
                          樋口一葉『水の上』

西欧の凱旋門は一時的のものではなかったのに対して、日本の戦勝を演出する役割を担う凱旋門は一時的のものであった。この点が日本の戦勝を演出する役割を担う凱旋門の特徴と言えるだろう。現在の大阪の名勝、通天閣は二代目であり、初代通天閣は、1912年に建てられた。この初代の通天閣はパリのエトワール凱旋門を模したものの上にエッフェル塔を模したものを重ねたものであり、第五回内国勧業博覧会の跡地につくられた。『舞姫』でも描かれているブランデンブルク門は、日本における凱旋門のように、すぐに取り壊される事も無かった。もはや凱旋を演出する役割は終え、都市の風景の一部になったと考えて良いだろう。通天閣も風景として存在していると言って良い。(日清日露両大戦後に出現しまたすぐにとりこわされた日本の戦勝を演出する役割を担う凱旋門は主に凱旋を演出する役割のみをになっていて、風景として存在を否定されたとも言えよう。)
最後に風景としての通天閣がしのばれている例を挙げる。

千日前の金比羅前通りから堺筋のほうに折れた咄嗟にそう呟いて、ふと新世界の方の空を仰いだ途端、正平は、
「おやっ」
どうもおかしい、こんな筈はないと、首をひねった。
そこに聳えている筈の通天閣が、いつの間にか姿を消してしまっているのだ。
織田作之助『清楚』

以上、日本近代文学にあらわれる日清・日露両大戦の<祝祭>を(主に凱旋門に注目して)みてきた。

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