米つきバッタ

      2017/04/01

米つきバッタ

米つきバッタとは、ショウリョウバッタのことである。ショウリョウバッタの足を二本そろえて持つと足の関節を曲げたり伸ばしたりしてぴょこぴょこ頭を下げる。米をついているようにも、謝っているようにも、見える。米をついている、としてある用例を挙げていく。

またあちらでは女の子達が米つきばったを捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と言いながら米をつかせている。ねぎさんというのはこの土地の言葉で神主(かんぬし)のことを言うのである。峻(たかし)は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気(のんき)なものに思い浮かんだ。
 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根一ぱいに負いながら、何匹も飛び出した。梶井基次郎『城のある町にて』




小熊秀雄『帽子の法令』では、米つきバッタの国が小説の舞台となっている。「米つきバッタの国では、お低頭をすることだけが、住民達の日常生活でした」とある。次に、ショウリョウバッタの頭を下げる格好から生まれた表現を拾っていく。

「昨夜は意外のオモテナシにあずかり、例になくメイテイいたしまして、まことに不覚のいたり。はからずも粗相をはたらきましてザンキにたえません。ひらにゴカンベンねがいます」
 額をタタミにすりつけて、平伏する。米つきバッタと思えば先様もカンベンしてくれるだろうという料簡である。
 サルトルがここをセンドとあやまるから、ツル子も化石状態がほぐれて、
「アラ、そんな。おあやまりになること、ないんですわ」 坂口安吾『現代忍術伝』

 鷹揚(おうよう)に首をまわした女、土間の文次とぱったり顔が合った。とたんに「や! この女は!」という色が文次の表情(かお)にゆらいだが、たちまち追従(ついしょう)笑いとともに、文次は米つき飛蝗(ばった)のように二、三度首を縮めておじぎをした。林不忘『つづれ烏羽玉』

以下の例は、バッタとのみあるが、これは、米つきバッタのことだと考えてよいだろう。

そこへまたドヤドヤと音がして、一人の青年が二人の女をしたがえて駈けこんできた。青年はいきなり男の前にバッタのように頭をさげて、
「申訳ありません。若い女の電話にだまされまして、それに迎えの自動車が来たものですから、つい電話を信用しておびきだされてしまいました」
坂口安吾『左近の怒り』

バッタのようにおじぎをしたわ。
三好十郎『猿の図』

へえ、阿呆に違え無え。阿呆でなきゃ、こうして二日も三日も、バッタの様に頭を下げ詰め、足あ、すりこぎにして、喜十がとこと海尻との間あ、お百度踏んでいやしねえづら。
三好十郎『おりき』

次の用例では、「バッタのように手をすり合わせて」とある。ぴょこぴょこ頭を下げる米つきバッタのイメージが、揉み手をして追従をするイメージと重なった例かもしれない。

 ふり向くと一緒に、険(けん)のある女の目が、ぐっと三人をにらみつけた。――咄嗟に、小次郎が、バッタのように手をすり合わせて言った。
佐々木味津三『流行暗殺節』

手をすり合わせるという枠組みでは、一茶の「やれうつなハエが手をすり足をする」を連想できるだろう。

馬に乗る様子が、米つきバッタに例えられることもあるらしい。

私はあちこちの段々畑や野良の中で立働いている人々が、この騒ぎに顔を挙げようとするのを惧(おそ)れて、人々の点在の有無に従って、交互に慌(あわただ)しく己れの上体を米つきバッタのようにゼーロンの鬣の蔭に飜しながら尊大な歌を続けて冷汗を搾った。
牧野信一『ゼーロン』

米つきばったのようなかっこうをしてへたな馬をけいこするひまがあったら、目のそうじでもやんな。
佐々木味津三『右門捕物帖 死人ぶろ』

米つきバッタ(ショウリョウバッタ)は、飛んでいるとき、キチキチと音を出す。キチキチバッタともいわれていたゆえんである。吉川英治が、米つきバッタを小説内に登場させる場合は、次のようになる傾向があるらしい。

 焦(や)くが如き炎天の下(もと)、碧落(へきらく)の十方、キチキチ、キチキチと、青い虫の飛び交うほか、旅人の影一つない真昼だった。
吉川英治『剣の四君子 小野忠明』

 青い翅(はね)の虫が、キチキチキチキチと、鹿之介の身をめぐっていた。
自分をつつむ世の嘲罵(ちょうば)悪声を、彼は、知らないではなかった。身をめぐってキチキチ飛ぶ螽(ばった)のように聞いていた。
吉川英治『新書太閤記 第五分冊』

炎天下、青い虫がキチキチ飛んでいるだけな一瞬を破って、五百余の眸は、正成のおもてから、彼方の宝満寺のほうを望んで、一せいに、異様な声をわああっと揚げた。吉川英治『私本太平記 湊川帖』

虫の出す音が、そのまま虫の名前になる例として、先ほど挙げた、キチキチバッタのほかに、ツクツクボウシも挙げることができる。ツクツクボウシは、小説内で、「おーしつくつく」(小説によって若干の表記の違いはある。)とされることも少なからずある。(漱石「猫」他)ツクツクボウシのなきはじめをきくと、「ツクツクボウシ」で、ワンフレーズだと思われる。ただ、複数のツクツクボウシが鳴いているのを長い間きいていると、「おーしつくつく」と鳴いているような気もしてくる。表記がわかれる所以だろう。最後に、北杜夫『楡家の人々』から引用をしておく。

 だが、赤褌さんの手紙はなかなか来なかった。信じがたく、理不尽なことではあるが、手紙がこないのは事実であった。病院の裏手の樹々には、油蝉がすでに倦み疲れたような声を立てていた。それから、小柄なつくつく法師が慌しげに鳴いた。それはもはや夏も終りに近づきつつあることを告げる晩鐘でもあった。
「ねえ、あれはツクツクホーシって鳴くのか、それともオーシーツクツクなのか、教えてあげようか?」
 と、黐竿を手にした米国が、金壷眼をくるくるとまわして、賢しらげに言った。
「うるさいわねえ。そんなこと、どっちだっていいじゃないの!」
 いたく機嫌を損じながら、桃子は思った。――赤褌さんって、あんがい血のめぐりがわるいんじゃないかしら。それにしても、まさか、あたしの魅力に気づかないなんてこともあるまいに。
北杜夫『楡家の人々』




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