学校の生徒と蜂と

   

  • ある私立高校を見学したとき、なんだか養蜂をしているようだなと思ったことがある。
    このクラスは、成績のよいクラスで期待が持てるのがんばってくれると思うの云々と説明され、私は、密かにクラスという言葉を蜂の巣という言葉に置き換えてみた。そして、この私立学校は教育と経営とをしているんだなと、当たり前のことを思った。

学校ないし学生(あるいは生徒)を蜂に喩えている例は、小説中に少なからず見受けられる。以下、引用する。

やがて時間が来たと見えて、講話はぱたりとやんだ。他の教室の課業も皆一度に終った。すると今まで室内に密封された八百の同勢は鬨(とき)の声をあげて、建物を飛び出した。その勢(いきおい)と云うものは、一尺ほどな蜂(はち)の巣を敲(たた)き落したごとくである。ぶんぶん、わんわん云うて窓から、戸口から、開きから、いやしくも穴の開(あ)いている所なら何の容赦もなく我勝ちに飛び出した。
夏目漱石『吾輩は猫である』

 

 

  夏休みが来た。
寄宿舎から、その春、入寮したばかりの若い生徒たちは、一群れの熊蜂(くまばち)のように、うなりながら、巣離れていった。めいめいの野薔薇(のばら)を目ざして……
しかし、私はどうしよう! 私には私の田舎(いなか)がない。私の生れた家は都会のまん中にあったから。
堀辰雄『麦藁帽子』

 

新子を帰して、丘の上に一人になると、雪子は青くないだ海に向かって、大きく深呼吸をした。そして、自信に満ちた歩調で、ハチの巣のように、こもった騒音をたてている、校舎の方におりて行った。 石坂洋次郎『青い山脈』

 

女教師である雪子が不満を持つ女生徒たちのもとに向かう場面である。

女教師といえば、壺井栄『二十四の瞳』を連想する。
以下の文章で、「蜂の巣をつついたような」と形容してある騒ぎは、「おなご先生」の生徒と生徒の親たちと教員によるものと考えてよいだろう。

「さ、今日はこれでおしまい。帰りましょう」
はたはたとスカートの膝(ひざ)をはらい、一足うしろにさがったとたん、きゃあっと悲鳴(ひめい)をあげてたおれた。落とし穴に落ちこんだのだ。いっしょに悲鳴(ひめい)をあげたもの、げらげら笑いながら近よってくるもの、手をたたいてよろこぶもの、おどろいて声をのんでいるもの、そのさわぎのなかから、先生はなかなか立ちあがろうとしなかった。横なりに、くの字にねたまま、砂の上に髪(かみ)の毛(け)をじかにくっつけている。笑ったものも、手をたたいたものも、だまりこんでしまった。異様(いよう)なものを感じたのだ。つぶった両の目から涙(なみだ)が流れているのを見ると、山石早苗(やまいしさなえ)が急に泣きだした。その泣き声にはげまされでもしたように「だいじょうぶ」といいながらやっと半身をおこした先生は、そうっと穴の中の足を動かし、こわいものにさわるようなようすで、靴(くつ)のボタンをはずし右の足くびにふれたと思うと、そのまままた横になってしまった。もう起きあがろうとはしない。やがて、目をつぶったまま、
「だれか、男先生、よんできて。おなご先生が足の骨折って、歩かれんて」
蜂(はち)の巣(す)をつついたような大さわぎになった。大きな子供たちがどたばたかけだしていったあとで、女の子はわあわあ泣きだした。まるで半鐘(はんしょう)でも鳴りだしたように、村中の人がとびだして、みんなそこへかけつけてきた。まっさきにきた竹一の父親は、うつむいてねている女先生に近よって、砂の上にひざをつき、
「どうしました、先生」
と、のぞきこんだ。
壺井栄『二十四の瞳』

「蜂の巣をつついたような」という形容は、学校に関係する存在以外にもされるのであろうが。

なお、J.Webster『DADDY LONG  LEGS』(『あしながおじさん』)にも、生徒なり学校を蜂に喩える例が見られたように記憶する。

手元に本がないので閑人が暇なときに調べてみようと思う。

 - 文学作品の中の虫